昭和42年8月21日 夜の御理解
一つのことがおかげに成っていくという過程で様々な神様のその中に働きを頂くのでございますのですけれども、例えば一つのおかげと云うものは、丁度子供があの小学生になりますと凧を挙げます。凧あげの様なものだと思います。凧をあげようと思うても無風状態では凧があがらん。ですからやはり、そこに春風なら春風が吹いて適当な風が吹いて初めて凧があがる。なら風さえ吹けば上がるというけど、きりきり舞してからあがらん場合があるでしょう。そういう時にはあげ方を色々に工夫して、糸の付け方とか又は凧の足の長すぎてもいかん、短すぎてもいかん。ちぎってみたり、つけてみたりしてその適当に上がって行くようにですね。
信心のおかげと云うものはそれなんです。神様のそういう一つのおかげと云うものは、第一そのお恵の風が吹かなければおかげになってゆかん。春風そのものが吹かなければ凧があがらん。それだけでもいけん。そこに私共がああでもなかろうか、こうでもなかろうと次々と思いを変えられて行く。場合に依っては目まぐるしい程に思いを変えて行かなければおかげになっていかん。いわゆる適当によく上がるところまで糸の引き具合いとか、足の付け具合いとかぴったり、短くしたり長くしたりというような手数がいるけれども、それを厭うたんではそこんところを修行と思い、そこんところを信心の稽古と思っておかげを頂いて行くこところに兎に角もうちょっと糸を操っておりさえすれば上の方で楽しく凧あげの遊びが出来るように、
おかげというものは、そう云う様なもんだと思う。いっぺんにたとえばそれがこんがらがった問題があったりする場合はある程にそういう感じですね。
久留米の笠さんがおられますところが、丁度急行電車の通りのところに大体私何時も思うけどね、類は類を以て集まると言うがほんとだねというんですがね、その塚本という醤油屋さんがあるですね、そこの御主人が兄弟とも非常にそのいい方らしいですね。殆ど無償の様にしてから提供しておられるですね。笠さんに、自分で家を建てて広場があるそうですから、自動車の修繕なんかの為に、それが丁度いい訳なんです。ところが十何年間ですね、勝手にやられたんですけれども、向こうも喜ばれる、こちらも喜ぶ。自動車の修繕なんかも、そのいわば笠さんが受け持ってやられるそうですから、両方共助かっておられるところが、今度その急行電車がここ少し移動するといったようなことから、そこを笠さんに立ち退いて貰わなければいけないことになっておる。それがその、今月いっぱいになっておるんですよね。 もうこ一年前からそのこと、こんな訳だから笠さん、何処か別のところを探して変わって欲しい、変わらなければならんと。ころがその、御承知の様に笠さんが神様任せなもんですから、どうもこの頃塚本さんぼちぼちその不安を感じてこられた。こりゃあもうこの侭居直るつもりじゃなかろうかと、又立ち退き料でも請求を思いよるとじゃあなかろうかと言った様な心配されるようになったのも当然です。いよいよあと十日しかないと言うのに、まだ家が見つからんというのですから、その中に立たれた弟さんと云うのがいよいよ心配になって笠さんの処へ見えました。実はこんな風で私はもうあなたが御承知のように毎日合楽にお参りさせて貰って、親先生が仰る通りにして、実際は手をうっておらん訳ではないのですけれどもです、神様の御神意のままに動いておるのであるから、まあこりゃあもう、いよいよ神様が、いやいやその家がですね、今月いっぱいで家が立ち退かなければいけない約束が来た時には、そりゃあもう背水の陣をしいとります。どこんなっと小屋の様な家ですからたたんで片付けます。私ははよう止めます。止めると云うような腹でおりますと話されますけれど、そこが信心がないと分かりません。そこであなたが、一遍合楽の先生にお逢して下さいと云うので、ここに今日塚本さんが見えられました。そして話を色々頂いておる内に、成程あの笠さんが神様任せ、親先生任せと言わっしゃる訳が段々分かってきた。お神酒一杯過ぎた時から、朝からですけれど、御神酒差し上げましてね。色々話しているうちに、そんなら笠さん、私が親方にもう二ヶ月間待ってもらわれるようにするけん、それまでにひとつどうでもあなたの言葉で云うとおかげを頂けると云うことにして貰っちゃあどうじゃろうか。私しゃここの先生のお話を帰って親方にしたら、今の先生のお話を聞いたらいちいちもっともな話であるから、只笠さん、棚からぼた餅待っておられるとでなくて云うならば本当に凧が上がる為に上げ方の稽古、おかげを頂く為に足を切ったりつないだりして色々工夫しておられるけれども、まだ春風が吹いていないと云うことが分かる。ですから、そこんところを私がもういちょ兄貴に交渉しますからと、今日帰られたのですけれどね。
別にまだそれとどうとおかげになった訳ではないのですけれどもね。そういう一つのこりゃあ笠さんとして大変な問題なんですよね。ただ普通の親子、何人かのものがどっかに移ればよいというものでは無くて、自動車の修繕をなさると云うのですから、相当の空き地がなからなければならん。なかなかおいそれと、金さえ出すならば・・・・・?がないから、神様任せになっておられながら春風を待たせて頂ながら、足を短うしたり長うしたりする工夫しておると云うそのことがここへ来てから分かった、ね。塚本さん、それで松本さんも納得がいったと云うようなことでございましたが、おかげと云うものはそういう風にして本当のおかげへおかげへと近づいて行くのですよ。それに塚本さん、私はもう云われましたのですけれど、自分は信心がないのですけれど実を云うと子供の時に櫛原の教会に一回お参りした事がある。中学の試験を受ける時にこれで、云うなら二度目でございますが、私もまんざら縁がなかった訳でもなかった訳ですけん、ですから私も信心の稽古をさせて貰おう、また参ってもいいでしょうかと云うようなことで御信心になって行くやら分かりません。知らんですけれども、どういう風にしてその縁が有難い縁になって行くやら分かりません。どうぞ一つ、おかげを頂くと云うことは物見遊山にさあ、もうと云うことじゃあありません。その間に共が足を短うしたり長うしたりさせて頂いておると云うこと。ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと自分も反省させて頂いて行くところに、神様の願いがそのへんにあるのです。そこに適当に春風が吹いて來る。そこに凧がいわば大空に泳ぐと云うようなおかげになって來る訳でございます。
信心の本当のおかげと云うのはそういう一つの過程と云うものは必ず辿らなければいけません。そしてあれもおかげ、これもおかげ、この人も立ち行くと云うように必ずおかげ下さるものです。どうぞ。